端的に言うと「人間は必ずしも、経済的に合理的行動をとるとは限らない」というのが、行動経済学のロジックらしい。最近、やたらと読み始めた行動経済学の本を突き詰めると、どうやら「論理的に解くことができる最適解があるにも関わらず、人間は感情で動き、非合理的的な選択をする」ようだ。

コロナ禍を見てると、まさにそれで。みんな「危ない」ということに目をつぶって活動をしているように見える。車の運転でも、多くの人が「もしかしたら、自転車が倒れてくるかもしれない」「脇道から子供が飛び出してくるかもしれない」と思って運転しているはずだ。しかし、今のコロナ禍では「周りが全員赤信号を無視して、飛ばして走っているから自分も大丈夫」と自らに思い込ませて非合理的な選択をしているようにしか思えない。

言うまでもなく、コロナの正体はまだ不明であり、症状も詳しくは解明されていない。起こっている現象としては「重症化したら死に至る」「重症化したら一生、肺機能に障害が残ったままになる可能性がある」という重篤な事態が待ち受けているということだ。確かに多くの人が、罹患しても無症状かつ病状も無い状態で健康に過ごしている。しかし、「もしかして、自分がなる可能性」はある。それは、車の「かもしれない運転」と同じで、可能性を鑑みると、何もない可能性も高いけれども、非常に危ない可能性も割とあるわけだ。世界的に見て、致死率は3.9%(2020年7月30日現在)。決して低すぎる数字ではない。

でもみんな、普通に動き、暮らしている。まるでコロナなんて無かったかのように。中には「コロナは騒ぎすぎだ」という人たちも世界中で拡大し始めた。「かかっても軽症」「わざと感染して、集団免疫を獲得すれば良い」というのが、彼らの論理の軸になっているように感じる。ただ、彼らは解っているのだろうか?「集団免疫=死を代償として伴う」ということに。過去、ペストやコレラなどの疫病と戦ってきた人類は、確かに集団免疫を得た。しかしその過程でおびただしい数の死者を出してきたのだ。ペストの死者は約5000万人と言われている。当時の人口の4分の1が亡くなっているのだ。

今回のコロナ禍の動きを見ていると、ロックダウンや非常事態宣言がかかる前の時点までは、みんな侮っていた。私もそうだった。当時のNewsweekなんかを見ても「騒がれすぎだ」いう論調。そこからロックダウンや非常事態宣言という自体に陥ったことで一気に「危ない」という論調に変わっていった。そして今、2020年7月30日現在では、再び「騒がれすぎだ」という潮目になってきているように感じる。

私は、もしかしたら確かに「騒ぎすぎ」かもしれないが、それであっても、日々車のハンドルを握る時と同じように「かもしれない運転」で生きていく。